一昨日の瀬戸内寂聴さんについての文章を書いていて考えたことがありますので、今日はそれを取り上げます。
先日、テレビを見ているとある番組でお坊さんの荒行を紹介していました。
荒行と言ってもいろいろとあるんですが、もっとも知られているのは滝行、水行、護摩行といったところでしょう。
どれも肉体を極限までいじめるんですが、しかし、なぜそんなことをするんでしょう。
まあ、最終的な目的は悟りを開くことなんでしょうね。
しかし、実は釈迦は苦行を無意味と断言しています。
彼は5人の修行仲間と共に苦行をするんですが、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、無意味どころか有害であることに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めます。
なぜ無意味、さらには害があるかと言うと、いわゆる楽というものを求めて苦行すれば、欲望は次々にエスカレートしていき、いつまでも苦行を続けなければならないからです(これは本当に良くあります)。
なのに昔からお坊さんたちは好んで荒行をします。
釈迦の考えを否定しているわけです。
まあ、いろいろと理屈をいうでしょうが、結局みんな好きなんでしょう。
そう云えば、肉体をいじめるような修行は他の多くの宗教にも見られます。
はっきりとした達成感がありますからね。
ただ、一人の尼さんが世界平和のために苦行をすると言っていましたが、これはどうかなあ。
苦行や荒行をするのは本人の勝手ですが、それを世界平和のためと言われても。
私なんかはそのエネルギーをもっと具体的に世の中の役に立つことに使えよと思ってしまいます。
また、護摩行や有名な「千日回峰行」(前に取り上げたことがあります)にしても、沢山の僧侶が手伝っています。
そんなことに意味があるのかなあ。
単なる自己満足、もしくは単に箔を付けているだけのような気がします。
もう一度繰り返すと、苦行や荒行をするのは本人の勝手ですが、それが本当に世の中の役に立っているかは多いに疑問ですね。
では。