
元ロッカーで今は俳優をしているある男性が、昔、こんなことを言っていました。
「僕の好きな女性のタイプは、野に咲くレンゲ草のような(ピュアな)女性だ。
女性にそれ(ピュア)を押し付けててはいけないことはわかってるよ。
子供を生んで母になる女性は、やっぱり現実的に生きなきゃいけない。
それはわかってるんだけど大和撫子はどこへ行った、という気持ちは消せないんだよ」
ううむ、なんという陳腐かつ貧困なイメージ。
女性を生きた存在として見ていない。
彼はさらにこんなことまで言い出します。
「他の男に横恋慕されて犯されそうになった時は、舌を噛み切って死ぬとか、そういう思いは今ないでしょ。
まあ、逆の立場で俺にそれが出来るかっていったら・・・」
ほんとうにいい加減にしてほしいものです。
本人に責任がないのに、まったくの被害者なのに、暴力で犯されたために、なぜ命を捨てなければならないんですか。
彼は本気で性犯罪の被害者の女性にこんなことを言えるんでしょうか。
舌を噛んで死ぬべきだなんて考えていること自体が女性蔑視だということに気がついていないんですね。
こんな馬鹿みたいなことを口走って、それでいっぱしの意見を述べたつもりだと思っているとすれば底が浅いとしか言いようがない。
それが自分で考えたものではない借り物であるだけに尚更です。
この男性は、こういう考え方なので自分は結婚できない、と重々承知しているとのことですが、確かに一生結婚しないほうが良いでしょう。
相手の女性を不幸にするだけですから。
とここまで書いてきて、最近読んだ「もてない男」(小谷野敦)という本を思い出しました。
その本には、何が書いてあったかというと、昔の男性のそれもかなりインテリとされる人たちの強姦についての考え方です。
まず、山口昌男氏(東京外国語大学名誉教授)は、1975年に某女子大大学院のお別れコンパで起きた女子学生強姦事件について、加害者である二人の教授を擁護し、訴えた女子学生に罵詈雑言を浴びせています。
「強姦という文学的行為をしてくれた人物(大学教授)への憎しみから、告訴という破壊行為に走るようでは、大学院で文学をやる価値など全く無い。
憎しみだけで二教授の文学的業績を葬ろうというのは・・・最低だし、そもそも二教授の文学的業績を認めていなかったことになり、やっぱり大学院での勉学は無駄だったのだ・・・満26歳、数え年で27か28のオールドミスの貞操が、二教授の社会的生命及び学問的業績及びその家族の生活をおびやかすほど価値があるものなのかどうか」
なんと、強姦を「文学的行為」と表現。
その上、満26歳の被害者をオールドミスと呼び、その貞操など取るに足らないものだと断じ、二教授の社会的生命や学問的業績、その家族の生活のためには強姦ぐらい我慢しろとのたまう。
ちょっと信じられないような意見ですね。
こんな人間が教育者・文化人類学者で、文化功労者、思想家、そして、東京外国語大学の名誉教授だった。
しかし、学生たちに何を教えていたのかなあ。
そして、作家の筒井康隆氏も、この事件に関して、以下のように述べています。
「強姦されたかされなかったか、そんなことはほんとはどうでもいいことなのだ。
とにかく女性は二十六歳である。
もしぼくが深夜二十六歳の女性と自分のマンションに一緒にいたとしたら、これは当然行動を起こしている。
たとえ相手が拒否しても、そしてまた、仮にぼくが教授であったとしても絶対に強姦している。
だからぼくの常識では、こういった場合、たとえまかりまちがえば強姦罪に問われることを覚悟してであっても、強姦した方がいいのである。
それが常識を持った人間としてごくまともな行為であれば、たとえ法律上は強姦罪が成立しても、男としてはやらなければならない行為なのである。」
筒井氏も結構有名な小説家で、ファンも多く、それなりの影響力をもっています。
それが平気でこんな発言をする。
この二人には、女性に対する根本的な蔑視があります。
この事件は1975年のことですから、昔といっても、それほど大昔というわけでありませんが、世間から厳しく糾弾されたということもなたったようです。
今だったら、二人とも、特に山口氏は、目茶苦茶にバッシングされ、大学から追放されたでしょうね。
ここまで酷くはないにしても、たとえば、「女は押しの一手だ」とか「強姦された女は強姦した男を好きになる」なんて今でも信じている男性が結構いるような気がします。
恐らく、上に書いた元ロッカーもその一人でしょう。
では